(don't get any) Big Ideas

音楽周りのあれこれかれこれ

好き嫌い?良し悪し? 〜音楽を聴くこと語ること〜

先日こんなツイートをした。

 

これは音楽の話に限らず、文学でも映画でも美術でもラーメンでもいいのだが、1番わかりやすい音楽の例で。例えばこんな会話をしたことはないだろうか。

例1)

あなた「○○はこういう点が良いんだよ」

Aさん「でも私好きじゃないし。好みは人それぞれだよね」

例2)

あなた「流行りの△△たいしたことないよな」

Bさん「でも好きな人は好きなんだろうよ。好みは人それぞれだよね」

 

知るかよ。そんな当たり前のことはどうでもいいんじゃ。僕は良し悪しについての議論がしたいんじゃ。

まあ僕がかなりお喋り好きなせいもあるだろうが、こんな風に「それは好みの問題だろ」で会話がストップしてしまった経験はないだろうか。

端的に言って僕はこうなっちゃう人とはあまり音楽の話をしたくない(実際に僕とこういう会話した人も読んでると思うけど、弁解やら反省やらもあるので最後まで読んでね)。さらに言えば、こういう場で「好みの問題」とか言い出すのは、議論できない人の逃げの方便だろとすら思っていた。

 

しかしそんな時にあるフォロワーさんのブログを読んだ。ここで取り上げられているのは前述の僕のツイート。

himoderation.hateblo.jp

 

これを読んだ僕は目から鱗が落ちる思いだった。

前提を結論と取り違えている。

本当にこの一言に尽きる。他でもない僕が前提を結論と取り違えていた(というより「好みの問題」派は「好みの問題」を結論として言っているのだと思い込んでいた)。

 

■「好みの問題」

気づいてしまえば当たり前のことだった。音楽を聴く時に「好みで聴く」は一番プリミティブで自然な方法だ。例えば評論なんかの評価を受けて、あるいはそれに反して「ここが良いここが悪い」なんて聴き方をする方がよっぽど不自然で邪道ともいえる。こんなのは当たり前だ。

ただ僕からしたら(あくまで僕からしたら)、前述のAさんBさんもここを大きく取り違えているように見える。僕からしたら「好みの問題でしかないんだから良し悪しについて議論しても無駄だよ」といったような感じに映っていた。 でも「好みの問題」であることは前提であり、それでも(無駄に終わるかもしれないが)それを超えた議論をしたいというのが僕のスタンスであった。僕も知らないうちに結論付け合戦に巻き込まれてしまっていたようだ。

というか何も結論を出したいわけではない。良し悪し白黒つけたいと言っているわけではない。そんなのは無理だ。良し悪しなんてのは「ある角度から見て良い、ある角度から見たら悪い、まあ総合的に言ってこれくらい」みたいなもので個々人によってその良い悪いの配分が違うし、時代によってもひっくり返る。絶対はない。

でも音楽をはじめとした様々な表現には"語らせる作用"があると思っている。こんなにも各種の批評が存在するのはなぜか。僕みたいなブロガーが星の数ほどいるのはなぜか。"語らせる作用"があるからだ。そして音楽についてあーでもないこーでもないと答えのない議論をすることは素晴らしいことだ。話すことで自分でも全く気付いていなかった点に気付いたりもする。議論自体は答えの出ない不毛なものかもしれないが、この行為は決して無駄じゃない。人間の営みである以上、語ることまで内包した上での表現と言ってもいいかもしれない。語り合うことは本当に素晴らしい。

そこで話は戻るが「好みの問題だろ」と言われると話が終わってしまう。高名な評論家でもこの観点から切り崩すのは無理だろう。本当に話が終わってしまう。無駄と思うかもしれないが、くだらなくも素晴らしい語り合いをしようではないか!

 

さて、上記の話をまとめると以下のように分類できると思う。

1.「好みの問題」が前提であることを認識せず、語らない人。

2.「好みの問題」が前提であることを認識せず、語る人。

3.「好みの問題」が前提であることを認識した上で、語らない人。

4.「好みの問題」が前提であることを認識した上で、語る人。

 

僕が上記のツイートで問題にしていたのは1だ。ただ今までの僕は2だった。そりゃあ噛み合うわけがない。僕「これはいいもんだよ。もっと色々聴けばわかるよ」 Cさん「えー…」みたいなトンチンカンなことが起こる。こりゃあ悲惨だ。おおいに反省している。ごめんよCさん。

3はいまいちイメージできないが、静観するのもまあスタンスとしてはいいと思う。僕からしたらもったいないとは思うが、各種の表現がある中で音楽に突っ込みすぎてる僕がそう思うだけで、みんなそんなに暇じゃない。

そして僕は4でありたい。くだらなくも楽しい、無意味に思えるけど有意義な、そんな語り合いがしたい。したいのです。

 ついでに言うと絶対的な「良し悪し」ってのは僕はあると思う。というかそう思いたい。そう信じたい。それはプラトンイデアみたいな、あるんだかないんだかわからない朧げなものかもしれないが、僕のような人種は聴くにせよ観るにせよ作るにせよ、それを求めてやっているのだから、あらゆる表現においてそれはあってほしい。「絶対ねーよ」は少し寂しい。

 

■嫌いで終わらすのはちょっともったいない

ここで終わってもいいのだが少し発展させた話。「好き」には個人によっていろんな理由があると思う。とっても深い理由だったり、すごくしょーもない理由だったり。そういう話をするのもきっと楽しいけど、それはまあここではなんでもいい。問題は「嫌い」の方だ。

思うに確たる理由をもって「嫌い」と言っている人はあまりいないのではないか。もちろんよく精通したジャンルで明らかに好みに合わないものというのもあるだろうが、全く通っていないジャンルの場合それは顕著だ。見ず知らずのジャンルを嫌う(嫌うとまでは言わなくても聴かない)のは、多くの場合は「合わないから」、なぜ合わないかといったら「そのジャンルの形式や作法が全くわからないのでどういったとっかかりで聴いていいのかわからないから(これは田中宗一郎氏も似たようなことを言っていた、というかそこからの拝借)」ではないか。いや、それでも悪いとは言わないが、もったいないのではないか。

だから自分の中で「嫌い」でストップしている音楽・ジャンルがあったら見直してほしい。きっと新たな道が拓けるはずだ。僕なんかも未だによくわからないジャンルは多いが、最近はたまたまライブで観てちょーかっこよかったHIPHOP(今までほとんど聴いてこなかった)なんかを聴いている。こんなきっかけでもいい。

ちなみに門外漢のジャンルに入っていくオススメの方法は3つ。

1.ライブに行くこと。

これが一番手っ取り早い。「クラシックのコンサートに行く」でも「生演奏のジャズバーに行ってみる」でもいい。名盤5枚借りてくるでもいいが、クラシックやジャズなんかは今まで何かしらの機会で耳にしているはずだ。それで直感的に選ばなかったのだから名盤聴くよりライブに行けと言いたい。なぜライブがいいか。まず迫力が違い過ぎる。僕なんかは初めてオーケストラを観たとき「今まで認識してたクラシックとは何だったのか」くらいの衝撃を受けたものだ。そして、周りの観衆を見ていれば楽しみ方の作法が自然とわかるというのも大きい。どこで盛り上がってどこでどこで静かに聴きいるのかが手に取るようにわかる。それがわかってくると非常に面白い。だからライブに行こう!

2.同じ音楽が好きな人にオススメを教えてもらうこと。

だから語り合えと言ってるんだ。広がりができるしその友人はよりかけがえのない人になる。いいことしかないじゃないか。それから感想とかをあーでもないこーでもないと言い合ったり、じゃあこれもオススメとか言い合ってるうちに同じ墓場にでも入ってしまえばいいんだ。ただ、やはり趣向はそれぞれ違うため微妙にズレが生じるのと(そのズレはむしろ楽しむ要素とも捉えられるが)、「人が熱心に勧めてくるといまいちちゃんと聴けない」謎アレルギーを発症することがあるのがたまにキズ。あれ何なんだろうね。

3.好きなミュージシャンのルーツを探ること。

アジカンが好きなバンドにアジカンのルーツであるOasisは聴かないのかと聞いたところ、「いやアジカンだけです」みたいに返ってきたという話を聞いたことがあるが、ルーツ探りは意外と浸透していないのかもしれない。これはすごくもったいないぞ。例えばこのブログでほぼ毎回登場するRADIOHEADはロック、パンク、ダブ、レゲエ、ボサノヴァ、ジャズ、クラシック、エレクトロニカ…と多種多様なルーツを消化した音楽をやっている(それがすごいんだがその話はまた今度)。インタビューを見たり、有名なバンドなら解説本やバイオ本なんかを読めば幾つかの音楽がヒットするはずだ。それは「好きな人が好きなもの」という贔屓目もあってとても入りやすいし、その大好きなバンドへの理解もより一層深まる。悪いことなんかないぞ。さあ、やるんだ!

 こんな感じで「嫌い」で見過ごさずに色々と触れていってほしい。絶対に新たな発見があるよ。

 

■終わりに

話が大きくそれたが、各人の「好き嫌い」を尊重しつつあーでもないこーでもないと語り合っていこうという話でした。やっぱり音楽はそれそのものの素晴らしさは当然だが、語り合えるということが素晴らしい。「好きなジャケは?」「かっこいいと思うバンド名は?」なんて話題でも一晩語り明かせる。最高にくだらないけど最高に素晴らしい、そんな音楽の語らい、みんなもどう?